これも教養
「キスって、何ですか?」
ニアが無邪気に聞いてきたので、食事中だった俺は、まるで虹が現れそうな程
の水を盛大に噴いた。普段なら布巾を用意してくれるであろうロシウが、俺以上に固まっている。
リーダーと副リーダーが並んで、何て無様なんだろう。
「あー……その、だなぁ」
とうとう来たか。
何時かは誰かに尋ねる日が来るだろうとは思っていたが、こんなにも唐突にその日を迎える事になるとは
予想していなかった。きっと俺の知らない所で、何かを聞いたのだろう。
だが今まで知識を得る機会が無かったのは奇跡に等しい。
団員の暇つぶしは幹部一般団員問わず、気が付けば恋愛だ何だという話題で持ちきりとなっている。
人が興味を持ちやすい恋愛話の嵐の中で、ニアはそれらに触れず大きくなった。
随分、保った方だろう。
「えっと、自分の唇と相手の唇を重ね合わせる事だよ」
「何故そんな事をするのですか?」
「愛情表現」
「では、私もシモンにキスをします」
「待て待て待てちょっと待てニア!」
両手で顔を包まれた俺にニアの顔が近づいてきたので、慌てて両腕を交差させて眼前に尽き出した。
防御した俺に対し、ニアは不服そうな表情を浮かべている。俺だって、そう簡単に持って行かれる気は無い。
「何故ですシモン、私はシモンを愛しているのに」
「一方通行だとなぁ……嫌がる相手ってのも居るんだよ」
「嫌がる?シモンは私を愛しているのでしょう?」
「ああ」
「では問題無い筈です」
「ちょっと待て待て待てニア待て!」
俺の防御を打ち崩しに掛かったニアは、その体重全てを押し出してのし掛かってきた。
少し状態を後ろへ引いていた俺は、ニアの重さを受け止めきれず、後ろへひっくり返りそうになる。
「二人とも、あまり巫山戯ないで下さい」
「うぉっ……と、ロシウ有り難う」
背中を押さえると一気に前へと押し出し、俺の体勢を調えてくれた。ゆっくり椅子に座り直すと、ち
ゃっかりニアが俺の膝の上に座っていた。
「ニアさん、そういった行為をするに至る感情……というものがあります。愛とは単純に見えて非常に複雑、
例えばシモンさんを例に考えてみましょう。彼は頻繁に愛という言葉を他者へ投げ掛けますが、こ
れは……」
「俺の分析はどうでも良いから!」
普段無意識に行っている口癖を分析される事が、こんなにも恥ずかしいとは思わなかった。
耐えきれなくなったのでロシウを止めさせ、複雑な心境でニアを見ると、普段と同じ笑顔を絶やさず浮かべていた。
「三人とも、こんな所で何してるのよ?」
「ヨーコ!良い所に来た!さぁニア、ヨーコに何でも聞くと良いぞ!」
「え?な、何よ!?」
膝の上にニアが居るので大きな動きは出来ないので、手を軽く動かしてヨーコを呼んだ。
ロシウも救われたというように顔を輝かせている所を見ると、色めいた内容の説明は苦手らしい。
「ヨーコさん……キスとは愛情表現として行われるというのに、私がシモンにキ
スをしようとすると防がれてしまいます」
ニアの持ち出した話題にはヨーコも予想していなかったらしく、突然飛び出した
キスという単語に頬を赤らめていた。
「シモンも私を愛してくれているのに、何故でしょう?」
「シ、シモンに聞きなさいよ!」
「……………あーーーー………………さあ?」
「ああもう、自分の感情なのにっ!!!」
確かに、何故俺はニアを防いだのだろう。
簡単にする行為では無いから……確かにそうだろう、だがそれだけでは無い筈だ。
ニアとなら嫌では無いと感じる自分が居るのも、また確かなのだから。
キス。
その言葉を聞くと、毎回思い出す。
アニキと、ヨーコの姿を。
「はい、ホワイトボード注目っ!」
普段は敵の観察や今後の話し合いをする会議室の机に俺とニアが並び、ロシウとヨーコがホワイトボードの前
に立っている。余りにも一般知識に欠けた俺とニアの為に、二人が詳しく教えてくれる事になった。
俺はジーハ村では穴掘りか寝るかの生活で、アニキとの会話で若干話題に出た程度。
地上に出てからは皆の知る通り仕事と戦いに明け暮れていた。
ニアに至っては自我を嫌う螺旋王が恋愛など教える筈が無く、俺と
出会ってからは似たような生活を過ごしていたので、こちらも情報は皆無。
深い意味で、愛を語り合った経験は互いに無い。
「ではシモン、あんたは恋をした事ある?」
ヨーコが聞くのか……それを、俺に。
「……あるよ」
もう吹っ切れたとはいえ、改めて言われると辛いものが有る。
「よし!ではニア、あんた好きな人は居る?」
「シモンが大好きです!あとヨーコさんと、ロシウさんと、キタンさんと……」
「はい、駄目!」
ヨーコの声が会議室に轟いた。
間。
「好きにも種類があるんですね!」
ヨーコのニア恋愛講座初級が終了するまで、俺とロシウは二人の隣で黙々と話を聞いている他無かった。
一度だけ空気に耐えきれなくなり横槍を入れようとしたら、ヨーコに鋭い目線を向けられた。
「そう、で……シモンへは恋愛の愛情、他へは友情ね」
「そうだったんですか!この想いに種類が有るだなんて知りませんでした!」
ニアの俺を見る目が一層輝いているように感じる。愛が重いというのは、こういう事を言うのだろうか。
「では本題の……き、キスよ」
ゴホン、と…一度咳払いをしてから、ヨーコは長い髪を指先で触りながらロシウを横目で見た。
ロシウはロシウで真っ赤になりながら顔を横に振っている。
これは質問形式にした方が良さそうだ。
「ニア、二人に何でも聞いとけ」
「はい!あの、キスという行為は話で聞きましたが、実は今一つ分かりません」
ニアは、まるで純粋さの象徴のように言い放った。
「私は是非、見本が見たいのです!」
時が止まる。
ニアの要望に応えるには、今この場で誰かがキスをしなければならない。
誰が?
ヨーコは確定として、ではロシウが相手?
……想像が付かない。
駄目だ、俺は混乱している。
「ロッロロロ、ロ…ロシウ!!!」
「あっ!は、はいっ!」
今まで立って話を聞いているだけだったロシウは、裏返った声を上げた。
「ロシウがやりなさいよ!」
「え、で…では、相手はヨー…」
「かかかかか勘違いしないでよっ!もう一人居るでしょう!?」
ニア除外、ヨーコが外れる。
そしたら残りは誰だ。
俺だ。
俺と、ロシウだ。
「おおおお男同士ですよヨーコさんっ!?」
「気軽になんて、私……絶対に出来ないわ!」
「だからって俺らかよ!?」
「ならニアの期待を裏切る気!!?」
ロシウと共にニアを振り返ると、期待に満ちた眼差しを向けられた。
この目は確かに、断りにくい。特に俺はニアの抱く願望を出来るだけ叶えてやりたいと思っているし、
今この瞬間にだってその想いは変わらない。
どうする。
「……シモンさんは、この僕が嫌いですか?」
ロシウの声が低い落ち着きのあるものに変わり、背筋が氷る。
これは覚悟を決めた時のロシウの声。
「いやそんな……愛してるけど…」
両肩を捕まれたと思うと、勢い良く立たされた。
「僕はシモンさんが相手なら、光栄です」
「ちょっ……待て!」
正面に構えるロシウの目が真っ直ぐで、何故か払い除けるのが申し訳なく思えてしまう。
ロシウの瞳には俺しか写っておらず、意識も同様だと感じる。
今のロシウは、全てにおいて俺で満たされている。
そう思うと、何故か動けなかった。
段々と、顔が近づく。
あの日の夜、アニキに口付けるヨーコの唇は艶やかだった。
ロシウは?
艶やかとは違う。
けれども。
逞しい。
「……ぅ、あっ…」
心音が聞こえる。
緊張している。
止めたい。
怖い。
楽しみ。
……楽しみ?
「口を開いているなら、そういうキスをしますから」
それは、何だ。
キスは一種類じゃないのか。
身体が一気に火照る。
嗚呼。
その声は反則だ。
全てを任せたくなってしまう。
抑えられない。
いや、俺は。
抑える気が無いのか?
接触まで、あと……少し。
「やっぱり嫌ですーーーーーーっ!!!!」
はっ、と意識が覚醒すると、全身の力が抜けて椅子の上に倒れるように座った。
両手で顔を包み込むと、風呂上がりのように身体が熱い。
「シモンが他の人とキスするなんて嫌です!な、何ででしょう…!?」
「ニア、それが恋よ!!好きな人が自分以外の人と仲良くなるのが嫌で嫌で堪らないの!それが
恋愛の好き、よ!」
取って付けたように説明するヨーコに今度は俺から目線を送ると、それに気付いた彼女は苦笑いを漏らしなが
ら顔を逸らした。
「キスっていうのは大切な人としたいものなの!これが好きって事よ!」
「これが……これが、好きという気持ち!」
ニアは目を輝かせて、実感した感情を心中で吟味している。
人騒がせだが、まぁ……ニアが一つ勉強したので良しとしておこう。
「ロシウ、格好良かった……愛してるぞ」
「……シ、シモンさんも元の調子に戻りましたか…」
机の上に突っ伏すロシウの頭をゆっくりと撫でてやった。何時も以上にロシウの愛を感じて、何だか
顔がにやけてしまった。人から向けられる行為に、俺は幸せを感じる。
その時。
バタンと、大きな音が鳴り響いた。
「よぉ、お前ら!何面白そうな話してんだよ!!」
「珍しいわねぇ、このメンバーでこんな話題。良ければ私が講師を引き受けても良いのよ?」
豪快にドアを開けて入って来たキタンに続き、リーロンが笑みを浮かべながらホワイトボードに目をやった。
「その続き、私が教えてあげましょ・う・か?」
「続きって何ですか?」
「ニアさん何てハレンチな質問をっ!!」
目を輝かせるニアに満足したのか、リーロンはマーカーを手に取るとボードに文字を書き始めた。
絵じゃなくて本当に良かった!!
「リーダー、男女が交わる……って意味、分かるかしら?」
「……交…?何かの表現だよな。あ、でもアニキに少しは教わったし、キタンからも話は聞いたから
大丈夫だと……」
「リーロン、俺コイツにそこまでは教えてねえや」
「じゃあこの子は、お触り程度を最上級と思ってるのね」
「何だよその目は!!」
リーロンとキタンからは満面の笑みを向けられ、ヨーコとロシウから生暖かい目で見られた。
俺はそんなにも間違っているのだろうか。裸で互いが触れあうというのは知っているが、ど
うやらもっと別の方法が有るらしい……全く想像が付かない。
何だか居たたまれなくなる、無知に羞恥するのは久しぶりだ。
「シモン、大丈夫」
「……ニア」
「一緒に覚えて、大人の仲間入りをしましょう!」
二十歳を越えた男が言われる言葉じゃない。
その後はリーロンに基礎的な知識を教わり、具体的な方法は男女に分かれて教わった。
何というか……愛情表現は壮絶だと思った。
ニアの裸は綺麗なんだろうな。
そんな事を考えた俺は、紛う事無き男だ。
ホワイトボードとマーカーはあの世界に有りましたっけ?(大汗)
シモンは村でもあまり人付き合いが無かったので、色気のある話もカミナくらいとしか出来なかった
んじゃないかなぁと。で、アニキも別に色恋沙汰よりも地上だ空だの方が関心が有るので、
ロシウの言うハレンチな話題は少なかったんじゃないかなぁと思います。
あ、でもアニキは知識全部有ると良いなと!
経験も…全部、済ませていても…良い、かも!
キスに軽くトラウマのあるシモンが書きたかったです。
2007,07,17
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