暗い闇の底 5
総司令室の机の上に並んだ書類の山に囲まれながら、俺はそれらに筆を滑らせる。
何ら変わりの無い、退屈で窮屈で疲れる日常の風景ではあるが、一つだけ違う事があった。
俺の指が数本、打撲で腫れている。
正確には指だけでなく、腕、足、腹、顔には擦り傷や殴られた痕が残っていて、身体を動かす度に
痛みが駆け抜けて辛い。特に指は万年筆を支え、尚かつ文字を書くという力仕事をしなければならない。
普段気に留めずに行っていた作業が、身体の一部が不自由になっただけで、こんなにも辛くなるとは思わなかった。
「これも全部ロシウのせいだ……」
数日前に受けた監禁と暴行。
ロシウをそこまで追い詰めた俺にも責任が有るかもしれないが、それでも彼奴の自制心にだって
問題があるだろう。普通ならばこんなにも積極的に、禁忌とされる行為に出る人物は少ない。
しかもそれらの行動を禁忌と定めたロシウ本人が、自分の法を犯したんだ。
誠実な男性を一人堕としてしまった。
この俺が。
多少の罪悪感はあるが、それ以上に変わってしまった男に対し恐怖を感じてしまう。
一度過ちを犯したからといって、ロシウが元に戻る事は無い。むしろ売り言葉に買い言葉で、
変わってしまったロシウを受け入れた。
しゅん、と。ドアの開く音が耳に届く。
靴音を鳴らしながら入ってきたのは、書類の山を抱えたロシウだった。机の上に新たな山を積み上げると、
サインの終わった書類の確認を始める。
「四時間も掛けて、これだけですか」
「誰かが俺の指を痛めてくれましたからね、痛くてペンを持つのも辛いんだ」
「今日中に四列は終わらせて下さい、ただでさえ遅れてるんですから」
誰のせいだと叫びたくなったが、必死に自分を押さえる。これはロシウからの挑発だ。
俺を監禁していた間、当然の如く総司令の仕事が進む訳は無い。それを理解した上での発言なんだから、
此奴は俺の顔が歪む所が見たいんだろう。望まれている事をわざわざやって見せる程、俺はお人好しじゃない。
むしろ見たいと思われるのなら、それとは逆の態度で接してやりたくなるだろう。
俺にだって誇りや対抗心という人並みの感情を持っているんだ。
「ロシウ、飽きた」
「そうですか」
「仕事は明日全部やるから、今日はこれで終わらせる」
てっきり即答で却下されるかと思っていたのに、ロシウは片手を顎に当てて考え始めた。これはもしかしたら、
本当に今日の仕事を終わらせる事が出来るかもしれない。そんな淡い期待は、次の瞬間に音を立てて崩れ落ちた。
「貴方が、僕に口付けてくれたら良いですよ」
にやりと嫌な笑顔を向けるロシウの顔は、あの薄暗い独房で見せた表情と同じだった。
日射しの差し込む総司令室に居るというのに、暗闇の中よりも寒さで身体が震え上がる。
誇りを取るか、自由を取るか。
この二つに苛まれる俺を、今ロシウは楽しんで観察している筈だ。
仕事は嫌だがロシウに良い思いをさせるのも不本意であり、二つを天秤に掛けるなら仕事を取った方がマシだろう。
俺が仕事を選択したいと願う意志も、ロシウは当然の如く理解している。
だが相手の思い通りの行動に出るのは嫌だ。
どうする。
ぶん殴ってやりたいが、手を挙げればそれを理由に奴からも拳を浴びせられるに決まってる。
俺は机の向こうに居るロシウの後頭部に手を回すと、自分の方へと勢い良く引き寄せた。
相手の唇に自分のそれを押し付けると、今度は舌を滑り込ませる。
広い机の距離だけ腰を折らなければならず、思いの外この体勢は苦しい。
くちゅり、という嫌な音が立ってしまい、激しい不快感に襲われた。
触れるだけの口付けは数に入らないと言われては、それこそロシウの思うツボだろう。
折角唇を合わせたのに、やり直しと言われては堪らない。
だから彼が反論出来ない程に完璧な口付けを一度交わし、それで仕事を放り投げてしまおう。
ロシウの意図を裏切り、尚かつ仕事も放棄する。
口付けを交わしたまま目を開けたら、ロシウの片目と視線が交差した。
真っ直ぐに、俺を見据えるロシウの瞳。
背中が凍り付いた。
「…ん…ぅっ!」
急に喉の奥に異物感を感じると、ロシウの舌が俺の中へ入って来たんだと気が付いた。
口を離そうと相手の両肩を掴んだ瞬間、頭を腰を押さえられて身動きが取れなくなる。
まずい。
そう思った時には既に遅く、俺はロシウに抱きしめられた。
頭と腰を押さえられていては抜け出せず、口の中で動き回る異物に意識を取られて力が入らない。
呼吸もままならず苦しくなり、自然と自分の顔が歪んでいくのを感じる。
「ゃ、め…っ…!」
制止させようと声を上げる為に唇を少し離すと、そこから互いの唾液が流れ落ち俺の喉を濡らす。
その後には、折角生まれた距離も引き寄せられて消えてしまった。
「ぁ…あっ、ぅ…っ…」
急に膝の力が抜けて机の上に倒れそうになり、それを阻止しようとロシウの首に回していた腕を机へと向ける。
書類の山が幾らか崩れ、それらが雪崩を起こすように次々と書類が机や床に散っていった。
それなのに、まだロシウは離してくれない。
口が塞がっているだけなのに、その中に蠢く存在に気を取られるだけで円滑な呼吸が行えない。
体力を消費するロシウとの行為は鼻からの呼吸だけでは足りず、
肺に十分な酸素を取り込むにはやはり口からが必要だ。
塞がれた口。
十分な呼吸が出来ずに苦しくなり、身体を支えていた腕からも力が抜けていく。
倒れそうになる身体を支えるには、どうしても酸素が必要だった。
ギリッ
「……っ!!」
口の中に鉄の味が広がると同時に、俺はロシウに突き飛ばされた。広い総司令室の床に倒れながらもロシウを
見やると、彼は口を押さえながら睨み付けるように俺を見ている。ロシウの口からは、一筋の鮮血が流れていた。
舌を少し、噛み切ってやった。
してやったりという顔を向けると、ロシウの顔に綺麗な笑顔がゆっくりと浮かべられた。
全身の毛が逆立つような恐怖を感じ、俺の表情が凍り付く。
一泡吹かせてやった達成感に満足していたのに、これから受けるであろう痛みを伴う行為を想像すると、
その痛みの苦しさを理解している身体に緊張が走る。まだ先日受けた傷も癒えていないというのに、
その上からまた傷を付けられるのだろうか。
怖い。
「……ロ、シ…」
「実質的に新政府を纏め上げる僕には、他にやる事があるんです。だから……貴方に構ってあげられる
時間は少ない」
てっきり殴る蹴る程度の暴力は受けるだろうと思ったのに、ロシウは倒れている俺の側にやって来ると、
床に投げ出された右腕を持ち上げ、そこに金の腕輪を填めた。
カチリと音がすると腕輪はしっかりと腕に馴染み、どんなに外そうと思っても抜けなくなった。
「……仕事、休んで良いですよ」
「え…?」
「ちゃんと自分からしましたからね、口付け」
まさか本当に仕事の放棄を許可してくれるとは思わず驚いていると、
ゆっくりとロシウに頭を撫でられた。それはまるで、母親の言い付けを守った子供を褒める動作に似ている。
その撫で方が暖かいなと思った瞬間、後頭部の髪を一気に捕まれ、顔を上に向けさせられた。
「痛っ!」
「でも最後のは頂けませんね、この腕輪はその罰です」
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このシリーズは4で終了のつもりだったのですが、
「あればぜひあの続きを読んでみたいです」という有り難いお言葉を頂いたので、
嬉々として書いてしまいました。
この物語は、読んでみたいと言って下さった某方様へ捧げさせて頂きます!
本当に有り難う御座います!
2007,10,11
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