7年を越えて 8





 広い部屋にしては、あまり生活感を感じねえ空間だと思った。
 白く清潔な壁と幅のある玄関、三箇所広い部屋を持っていながら、その一室を使うだけで他は客間に等しかった。 設備の整ったキッチンだけは使用頻度が高いらしく、見知らぬ調味料や道具が並んでいやがる。 昔から自炊は全てシモンに任せっきりだったせいか、料理の腕は相当に高いと見て取れる。
 リビングに置いてあるテーブルと椅子とテレビ、キッチンと三部屋のうちの一室。 明らかに有り余っている。
「広すぎるぞ、余った部屋は物置の役割さえ果たしてねえな」
「もっと小さい部屋で良いって言ったんだけど、ニアが自分の家の側に来て欲しいって言うもんだから」
「何であの嬢ちゃんが出てくるんだよ」
「ニアはテッペリンの社長令嬢で、此処の最上階に住んでるんだ」
 人脈ってのは何処で作られるか分からねえし、どんな人間がどんな立場に就いてんのかなんて事も、見た目 じゃあ判断出来ねえんだと思い知った気がした。一般知識を取っ払って見てみれば、シモンの事だって 平均より綺麗な青年という程度の印象しか無いだろう。そんな奴は超有名若手俳優なんだ、分からねえもんだよ。
「アニキは珈琲嫌いだよね?」
「おうよ!泥水は性に合わねえ!」
「ははっ、じゃあ緑茶入れるから少し待ってて。他の部屋に行っても良いよ」
 妙に弾んだ表情をしながら、シモンがキッチンで湯飲みとカップの用意を始めた。コンロの前に立って湯を沸かす シモンを見ていると、まるで夫婦の関係が頭を過ぎり、心音が破裂しそうになる。 場違いな妄想は止めろと心に訴えかけるが、なかなか俺の心臓は言う事を聞いてくれねえ。
 もし結婚したなら、シモンは毎日俺に緑茶を入れてくれんだろうな。
「ちょっとお前の部屋見せて貰うぜ!」
「うん、じゃあ煎れ終わったら呼ぶよ」
 鼓膜が破れる程の心音から逃げる様に、俺はシモンの側から離れた。これから一緒に暮らすってのに、 空間をたった数分間共有しただけでこんな様子とは先が思いやられる。
 取り敢えず距離を置こうとシモンの部屋に入ると、其処はシモンの匂いがした。
「お、本棚」
 大きめの本棚には大学のテキストらしき、良く分からない地面に関する本が並んでいる。手に取って開いてみるも、 俺にはさっぱり分からねえ。そんな本を戻す時に、ふと一冊のノートが隠れるように並んでいるのに気が付いた。
 何となく興味を惹かれて取り出すと、大学ノートの表紙には手書きで「日記」と書いてある。 覗き見ってのはプライバシーを侵害すると分かっているが、いかんせんシモンの日記だ。見るか、見ないか、 見てしまうか、 許可を取ってから見るか……悩んだ末に俺は、悩むなんて女々しい行為を放棄する事に決めた。男は常に 大胆であれ、迷わず前に進め、それが俺の座右の銘だ。
 一枚、ページを捲る。

『9月15日 土曜日
両肘に擦り傷、助けられたお陰で軽傷で済む。アニキは打撲、骨折、捻挫、内臓破裂、意識不明。他にも色々ある。 説明を受けたのにどうしても理解が出来なかった。生命維持装置を使う』

 予想外の文字に、身が氷りそうになる。
 俺は事故の様子をあまり覚えていないせいか、その時の恐怖や痛みに関して意識すべき事は何も無かった。 シモンを助けられたという事実に満足した俺は今、清々しいとまで感じている。
 だから事故直後の自分の状態ってものを、改めて意識させられた。

『9月16日 日曜日
カウンセリングを受けている途中で、涙が止まらなくなった。アニキの状態に進展無し。今だ意識不明。 これ以上生命維持装置を使い続けるだけのお金が無いと施設長に言われる。 その後キタン一家がお金を出してくれた』

 一文が心に突き刺さる。
 カウンセリングを受けているのはシモンだろう。俺はシモンを助けた事に満足しているし、後悔もしてやいねえ。 生き残ったシモンが辛い目に遭うのは仕方のねえ事だし、それを乗り越えてこそ強くなるべきだとも……少し 厳しいだろうが思っていた。
 だからカウンセリングを受ける程の体験だったという事実、事の重大さに関しての姿勢が不適切だったんだと 知り、思わず涙が出そうになった。
 そして親友が、俺を助けてくれていたんだという事を。

『10月11日 木曜日
お金が無い。意識回復の見込みも無い。キタンにもこれ以上頼れない。施設長にも何も言えない、施設の 仲間を飢えさせる訳にはいかない。中学生にお金は貸してくれない。
誰か助けて。アニキを助けて』

「生命維持装置を外した方が良いのかなって思ったりもしたよ」
 落ち着いた声を背後から掛けられて緊張しながら振り向くと、予想に反して優しい顔をしたシモンが湯飲みを俺に 手渡してくれた。
「アニキをどうやって助ければ良いのか分からなくてさ。意識は回復しないし、傷は全然治らないし、 生命維持装置を外したら確実に死んじゃうって状態だったんだ」
 傷だらけで眠る俺自身の姿が想像出来ず、他人事として受け取っているように感じた。それよりも俺は、 俺の為に力を貸してくれる仲間やシモンが弱っていく方が耐えられねえ。例え過ぎ去った時間の話であっても、 想像するだけで胸は強く痛む。
 だが装置を外してくれて構わなかった、という言葉はどうしても言う気にはなれなかった。 どんなに他人に迷惑を掛けても、俺は生きてたかったんだ。
 俺は生きたかった。
 俺は生かされた。
 皆が俺を生かしてくれた。
 申し訳なくも、嬉しくて堪らねえ。
「シモン……有り難う、有り難うな……」
「……うん」
 力のない声だったが、まるで今にも泣き出してしまいそうなシモンの顔は、俺の発する感謝の言葉に胸を振るわせた 表情だというのが分かった。 俺の為に努力してくれた弟の意志と行動に感謝した俺の言葉を、シモンが嬉しいと感じてくれた。
「ねえアニキ……そんな時なんだよ、芸能界に入ったの」
 シモンは俺に語って聴かせた。
 金は無え、気力も無え、俺の生存への確率もほぼ無え。打開策の無い窮地に追い込まれたシモンの 精神が限界近くまで磨り減った頃、危ないと感じたのであろうニアが気分転換に外出へ誘ったんだと。
 ニアは父の会社テッペリン株式会社で作られた車のCM撮影の現場に、父ロージェノムに会いに行きたいが 一人では不安だ、という口実でシモンを病院とは無関係の場所へ連れ出した。
 当時力を入れて製作した車のCMだった為、当時の撮影スタッフは 車同様にCMの完成度も高さを求め、多忙である社長のロージェノム本人もが その現場に訪れていた。しかし役者と車のイメージはスタッフの意図するものでは無く、 どう表現するか惑う彼らに良い案が出ずに撮影が難航していた所で、 娘の連れてきた少年に目を付けたロージェノムが、試しにシモンへ演技をやらせたのが全ての始まりだという。
 当初は目の下に隈を作り、体調不良としか思えない程に窶れた子供を、 正式にCMへ起用するとは誰も思ってなんざいなかった。
 それこそ、最初のうちは。
「これ……その時のCM」
 ポンと、黒いビデオテープを渡された。 ラベルには車の名前であろう横文字と、CMという文字が並んでいる。
「見ても良いのか?」
「あんまり面白いものじゃないけどね……それでも、アニキが見てくれるなら」
「見るに決まってんだろ!」
 俺にビデオテープを渡す時、シモンの綺麗な指が若干震えていた。 妙に気まずそうにしている弟の頭に手を置いてガシガシと強く撫でると、最後に数度軽くその頭を叩いた。
 安心しろと、心配するなという意志を込めて。
「なあシモン……俺は別に嫌な想いなんざしてねえぜ?」
「……え?」
「お前の言動はお前の過去を俺に伝えるだけのもんで、俺に『過去どれだけカミナに金を注ぎ込んだか』を 語っていやがる……だなんて事は微塵も感じてねえんだからな」
 ハッとしたシモンの顔を見ると、俺の考えは図星だったんだろう。心優しいシモンのことだ、 芸能界への進出と俺の入院費稼ぎが同一だとしたら、進出の切欠語りは 俺の為にどれだけの金をつぎ込んだか、 をアピールしちまう結果にもなるだろ う……俺がシモンの感情さえ読み取れない頭の悪さを持っていたなら。
 だが俺はシモンの真意を感じることが出来て、尚かつその意志に感謝しつつ、芸能界での活動を見たいと思って いる。シモンが不安に思うことも無ければ、心配することも無えんだ。
「アニキ、俺……っ」
「このCMがデビュー作なんだろ、凄えじゃねえか!」
「……本当?」
「おう、男は嘘なんざ付かねえんだぞ!」
「ははっ、そうだね……!」
 静かに笑うシモンの笑顔は、今日見た中で一番純粋な笑顔だった。思えば今日のシモンは妙に緊張した様子だったが、 俺はてっきり二人暮らしを始めることへの緊張なのかと思っていた。どうやらこの件が最大の不安要素だったんだ ろう、肩の荷が下りたシモンの頭をもう一度撫でてやった。



 居間に戻るとデッキにビデオテープをセットし、テレビを付ける。
 再生ボタンを押すと、デッキの起動する音が聞こえた。
 夕日を背景に大きく真っ黒い車が走り、その手前に うっすら顔が分かる程度にその身を黒い影に包んだシモンが全力疾走している。 車の激しいエンジン音と、走るシモンの大地を蹴る音が激しく耳に届く。
 太陽を背負うシモンは逆光のお陰で、痩せて窶れている身体は分からねえだろう。 運動が得意な部類だったシモンの走りは綺麗なもんで、画像を編集している故とは思うが、 まるで走る車と同じ様に風を切って走る姿は、見ている者に強い疾走感を感じさせる。
 段々とシモンを追い抜かした車は、最後にはシモンを振り切って夕日へと走り続けた。 その後ろ姿へ向かって、驚くことにシモンの咆哮が轟いた。
 まるで涙を流しそうな辛い胸の内を吐き出すような。
 細く小さな身体から溢れ出る。
 強く大きな。
 叫び声。

『うぉおおおおおおおおおおおおおおぉおぉぉおぉぉぉおっっ!!!!!』

 車の名前が画面に表示され、30秒のCMは終わった。




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昔講義で使った医療や倫理関連のテキストを開いてみたりしましたが、内容には全く反映されませんでした。


2007,11,04

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